存在する?しない?輪廻転生や生まれ変わりは都市伝説じゃない【驚愕】輪廻転生は学会でも発表された事実

オカルト・怖い話 謎・ミステリー

前回の動画では、実際に人間が最後の瞬間を迎えた直後に21グラム軽くなるという事実から、人間には「21グラムの魂」が宿っていて、人生の最後には、それが肉体から抜けそれが天国や地獄に行くのではなく、私たちのいる空間に留まり、また別の肉体に宿るのではないかという話をしました。

詳しくは、今回の動画をより深く理解する意味でも、前回の動画を見てもらいたいのですが、今回は魂の実態についてや生まれ変わりについての話をしていきたいと思います。

魂が肉体に宿る時期

前回の動画では、生後1週間の赤ちゃんの肉体に魂が宿る瞬間を目撃した事例の紹介をしましたが、これは「生後に魂が肉体に宿る」ということでしたが、「魂は胎内で成長する過程に宿る」という考えも存在します。

私個人としても、どっちが正しいかは明言できないため、今の段階ではどっちも正しいと言うしかないのかと思いますが、魂は胎内での成長過程で宿るという考えを掘り下げていきたいと思います。

人間に魂が宿るためには、その魂を受け入れる器となる肉体が必要だと考えると卵子・精子の状態や受精した瞬間では、まだ魂は宿っていないと言うことができると思います。

「魂を受け入れる器」とは何であるかを考えると、例えば、フランスの哲学者デカルトは、松果体を「魂のありか」と呼んでいますので、「魂を受け入れる器」は、身体(ボディー)ではなく松果体がその器だと考えるのが一番可能性が高いと思います。

ちなみに松果体は「第3の目」とも言われ、脳の中心部分にあり、メラトニンというホルモンを分泌する器官になり、人間の場合、受胎後3週間で松果体がすでに確認できるので、その頃には、魂を受け入れる準備が整っているのではないかと考えられます。

ちなみに、松果体は、あらゆる器官の中でいちばん早く形成されると言われていますので、人間は、何よりも先に、魂を受け入れる準備をしているのかもしれません。

それと、魂は機械的に肉体に宿るわけではなく、魂にもいろいろ都合があったりもするのではないかとも思うので、一律の時期ではないようにも思うため、そこは言及し過ぎる必要もないのかとも思います。

前世の存在

この種の話をすると必ず「前世の存在」についても触れることになりますが、前世の記憶を持ってる人は意外と沢山いるのはインターネットやYouTubeを見るとよく分かります。

精神科医エイドリアン・フィンケルシュタインは著書 「あなたの過去の暮らしと回復への道」 で、ロビン・ハルという男の子のことを綴っていますが、ロビンは彼の母親すらも理解できない言語でしゃべるため、母親が心配して言語学博士に見てもらうことにしたそうです。

その結果、ロビンがしゃべっていたのはチベット北部で使われる言語であることがわかったのですが、ロビンは記憶の中で、自分が修道院の学校に通っていた事を鮮明に覚えていたそうです。

生れ変りの概念として「この世界で修行を積めば再び人間に生まれ変わることができる」というものもありますが、人は霊体・幽体・肉体の三体から成り立っていて、人が亡くなると、肉体という着物を脱ぎ捨て、霊体・幽体となり、幽界といわれる修行の場へ旅立ち現界での執着を取るための修行をし、霊体・幽体がすっかり浄化したところで、再び現界へ人として生まれ出るという考えも一つの考えとしてあります。

執着執念を十分に取ることが出来ない、浄化し切れないままだと、幽界にいるうちに他の動物霊に転生してしまうと言われていて、つまり、「修行が足りないと動物として生まれますよ」という事になります。

人が幽界で動物へ生まれ変わる、現界へ動物から人へ生まれ出てくることは「転生」と呼ばれますが、転生動物は、狐、猫、犬、馬、猪、狼、羊、雌鳥などがあると言われています。

ただ、輪廻転生説に対して、現代人は疑問を抱く人が多く唯物論を基本とする現代科学観で霊的世界を解明するのは困難ですが、輪廻転生は事実であるということが、色々な現象により確認されているという研究者もいます。

輪廻転生が存在する呈で話を進めると、輪廻転生(再生)を許されているのは人間だけで、人間だけが幽界と現界を往き来しながら、再生・転生を繰り返し、一段一段魂の向上ができると言われています。

このように人間だけが進歩することを、神から許されていて、これが神の人間に与えられた永遠の仕組みだとも言われています。

魂は永遠の存在

魂は永遠に修行し続け、一段一段魂の向上を目指すことが私たちの持つ魂の目的だとすると、魂の状態で自分が永遠に存在するということ自体理解が難しくはありますが、医学的に見ると、人間の精神は脳の中で起こる電気信号と化学反応の総体であり、また別の見方も必要になるのかもしれません。

小学校では豆電球に乾電池をつないで電球を光らせる実験を行ったことがあると思いますが、人間の脳で起きていることと我々が感じる「意識」も、突き詰めればそれと同じでリード線を外すと光が消えるのと「死」は同じだと捉えることができます。

でも、そう考えると消えた光が何処かへ飛んでいって、別の豆電球に入り込んで電球を光らせるなんてことは絶対に起きないので、それとはちょっと違うかと私は思っています。

人間は最期の時を迎えたら灰と、水蒸気、二酸化炭素になるだけで最終的には土に帰るだけで魂などは存在しないと主張する人も多くいます。

つまり、これは人間は「無」から誕生し、「無」に変えるということになるのだと思いますが、そうであれば、現生でこれでけ私たちが苦しむ必要はどこにあるのかという疑問が頭をよぎります。

そもそも、全てが「無」であるのならば、苦しむことすら無駄なのではないかと考えることもできますが、それよりも「死にたいする恐怖」が大きく芽生えることになります。

いずれにしろ、死後の世界がどのようなものであるかの確証を持てない私たちは、少なからず「死の恐怖」を心のどこかに抱いていることになりますが、“なるべく恐怖を抱かずに死の瞬間を迎えるための策” として、一つ参考にしたい考え方があります。

インドの聖地バーラーナシーには、人を看取るための『死を待つ人の家』があるのですが、そこでは人々は死が訪れるのをじっと待っているそうです。

彼らは宗教上、『輪廻』という概念を強く信じているため死や別れを恐れないというのです。

一方、今の日本人はどうでしょうか。昔の人は年を取り、自然にものが食べられなくなると、だいたい2週間ほどで枯れ木のようにやせ細り、亡くなっていった訳ですが、現代医療では様々な治療を講じて、むしろ、別の苦しみを増やしてしまっています。

これについては、「生きたいという我欲が死への恐怖を生んでいる」とお釈迦様も指摘していたように現代は完全にこの視点が欠けているのではないでしょうか。

人間は死ぬために生き、生まれた瞬間から刻々と死へのカウントダウンが始まっていることを理解して、老いや病を受け入れる。

とりあえずは、それが我々が現代人の最初のハードルなのかもしれません、日本の教育で「死」はタブー視されているところも見直し、子供の頃から「死」に関心を持ち、考え学ぶようにすることで人生全体の構成が大きく変わっていくように思います。

今回の話は難しい内容でしたが、この内容も多くの人に関心を持ってもらいたいのでシェアしてもらえたら幸いです。