信長に仕えた日本刀を使いの〇〇サムライ【驚愕】日本の武士とサムライは世界最強だった!!

謎・ミステリー

戦国時代、織田信長に仕え、本能寺で明智光秀と戦った黒人サムライがいたという伝説はご存知ですか?信長の死後に信長の家臣が書き起こした信長の一代記で信長公記には伝説の黒人サムライのことを「十人力の剛力」と記されています。

彼は、日本に派遣されてきた東インド巡察師ヴァリャニーニの従者で正式な記録は残っていないものの、アフリカはモザンビークの出身であったと伝えられています。

織田信長は、宣教師の一行が信長に謁見を申し入れたとき、同行の黒人見たさに予定より二日も早く本能寺に招いたと言われていて初めて黒人を自分の眼で見た信長は、肌が黒いことが信じられずに、その場で体を洗わせたという逸話も残っていますが、信長はこの黒人のことをえらく気に入って、宣教師に頼んで譲り受けたとされています。

黒人サムライ「弥助(ヤスケ)」

一説によれば、ヤスケは宣教師の奴隷のときには人間扱いされていなかったものの信長は彼を「ヤスケ」と名づけ、武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように取り計らわれたと言われています。

信長はヤスケの持っている身体的能力の優秀さを日本人男性の10人分以上だと評価していたため、それが信長公記での「十人力の剛力」という記述につながったのだと考えられます。

また、『松平家忠日記』には、「名は弥助、身の丈六尺二寸(約187cm)、黒人男性、身は炭のごとく」とその容貌が詳細に記述されていることからも黒人サムライの伝説は、かなり事実に近いものだと考えても良いと思います。

黒人サムライ「弥助」は、信長に忠誠を誓った真のサムライだったという言い伝えもあり織田信長は、あの有名な本能寺の変で明智光秀に倒されていますが、その時も弥助は、明智光秀の軍勢に立ち向かい多くの敵を倒したようです。

弥助は、数奇な運命のもと故郷を遠く離れた極東の島国で出会った新しい主君のために自ら死地に赴くような危険な戦いに身を投じたということになりますが、当時の武士達ですらまだ江戸時代ほど強い忠義の観念は持ち合わせていなかったのにもかかわらず主君親子のために命がけで戦ったのは「真のサムライ」と呼ぶに相応しいと言えます。

しかし、信長が炎の中で自刃すると、本能寺から二条城の信忠のもとに走ったものの最終的には明智軍に捕縛されたそうです。その後、光秀は黒人だからということで放免し、宣教師の元へ戻すように指示したようですが、弥助の行方について記録はここまでで、消息不明となっています。

武士・サムライとは

弥助の伝説が本当であれば確かに弥助は「真のサムライ」であったかと思いますが、そもそも私たちは「真のサムライ」がどんなものかを理解していないのではないかと思います。

ある古文書には「日本の武士の刀術はまるで神の如しだ。我々の明兵は武士を見れば皆身がすくみ逃げ腰になる。刀術に優れた武士だが刀術だけではなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。

弓の扱いも我が弓兵と互角、そのほかあらゆる兵科と比べて不足が見つからない。本当に日本人は殺戮者だ。その家には刀を持たぬものは無く、子供の頃から剣術を鍛えられ始め、壮年にいたれば手に負えなくなる。

それゆえ接近戦は日本の武士に一方的に有利で明兵では相手にならない。日本人を有効的に殺せるのは火器のみである。であるにも拘らず、多くの鳥銃手を擁している場合でも勝てないのは外でもない。

日本人は戦いに臨んで命を忘れるが、我が明兵は戦いに臨んで恐れて逃げるため、その鉛子は地に堕ち、あるいは薬線が法なく、手震え、目眩み、天を仰いで空しく発射する為である。」と記載されていて、武士はただの兵士とは一線を画す存在であったことが伺えます。

また、そのほかにも「日本人の勇猛さには疑問の余地が無い。自ら軍事国家と呼んでいるくらいで、幼少の頃から戦争道具を生きる道に選び、刀と弓、この国固有の二つの武器の使用法を教えられる。

日本刀を完璧に扱える日本人は、刀を抜いたその動作から一気に斬りつけ、相手がその動きを一瞬の間に気づいて避けない限り、敵の頭を二つに両断することができると言われている。

当然のことながらこの武器は極度に危険な物と見なされ、刀を抜きそうな素振りを見せた時にはその場で直ちにそのサムライを殺しても正当防衛と認められる。

一瞬でもためらえば、自分の方が犠牲になるのは明白だからである」さらに「日本人の特に習練するものは武術なり。
男子はすべて十二歳にして刀剣を侃び、これより後は夜間休憩する時の外は腰間の秋水を脱せず、寝に就くの時と錐も、尚枕頭にこれを安置して、睡眠中と難も、曾つて武事を忘れざるを示す。

武器は湾曲剣、短剣、小銃、弓箭あり。
その剣は精練を極めて鋭利なること、これを以ってヨーロッパの剣を両断するとも刀口なお疵痕を残さずと云う程なり。」

とあり、人間の潜在能力を凌駕するような精神と殺気を持ち合わせていたことが伺い知れます。

弥助が、こんな異質の存在である武士に1年足らずでなったことに疑問を投げかける研究者もいるようですが、黒人の身体能力は日本人とは比較にならないくらい高いのは周知の事実で、奇人と知られる信長の考えは外国人と相通ずるものがあったのかも知れないと言われ、そんなことから信長と弥助は意気投合し、武士になったのかも知れませんね。

世界最強の武士・サムライ

モンゴル帝国の第5代皇帝で元の初代皇帝でもあるチンギス・ハンの孫フビライ・ハンは日本遠征でサムライの存在を一番恐れていたそうです。

当時、中国で最強と言われた鉄矢五連があったため果敢にも陸上戦を挑んだものの連携のとれた少数精鋭部隊であるサムライは、その卓越したスピードと個人技術で中国軍を圧倒したと言われています。

また、英国の話では、サムライを好んで雇う軍師もいたそうで、この英国部隊の軍師の部隊の基本装備は日本刀で有名だったらしく日本の侍一人で敵3人は軽く相手にできて一対一では圧倒的な強さをみせ、何よりその忠実心を買っていたようです。

サムライの剣術の凄さは、中国の記録でも残されていて中国で使用されていた武器より長く軽くすばやいので中国の正規の兵では対応できず、切り殺されていったと残されています。

当時のサムライの兵力は、後に日本刀と剣術を分析し、少林寺等の僧兵の援軍を受けようやく鎮圧したらしいですが、日本で残ってない流派の剣術、戦国以前の太刀を使った刀法が何種類か中国で中国武術として伝授されたようです。

秀吉の出兵でも日本の武士の強さはいくつも書き記されていて、特に接近戦はやらないようにと指導されていたようです。現在、日本では剣術としてサムライの技術はごく少数の剣術家に受け継がれているのみで、その詳しいことは一般人は知ることはないとされています。

しかし、武士やサムライが優れていたのは剣術のみではなく精神・スピリッツの部分であるとも言われていて、剣豪・宮本武蔵の五輪書は武術愛好家のみではなくスピリチュアルな書物としても読まれています。

そんな文化が日本にあったことは誇らしく思いますし、私たちは少しでもそのスピリッツを思い出して受け継いでいけたら良いですね。